
SALAを出て、
一筋上の下長者町通りを西へ、
堀川通りを越えて
二筋目の猪熊通り辺りは、
昔、織部町と呼ばれたところ。
京の都が開かれる(794年)と同時に、
宮廷の染織を扱う織部の司が設けられ、
機織る人々が多く住んだという。
平安の中頃から、織部司内部の統制がゆるみ、禁を破って
綾・錦を織るものが出始め、本来は、宮廷の雑務係だった大舎人も
この動きに加わってゆく。
保元・平治の乱(1156~59年)を経て、織部司の統制力は、
完全に失墜し、機織は民間へと移行する。
鎌倉時代には、、京の織物は「大舎人綾」「大宮絹」と呼ばれ、
大舎人が住んだという大舎人町は、猪熊通りを挟んで
織部町の東にあったというから、今の菊屋町付近だろうか?
この後、京都は戦乱の時代に入り、機を失った大舎人達は、
全国に散り散りとなるが、応仁の乱(1467~77年)が終息すると、
再び京都に戻り、西軍の陣跡付近で「大舎人座」を作り、
織り始める。
これが西陣織の名の起こりと聞く。
同じ頃、東陣跡の新町通り付近で、織り始めた「白雲練貫座」は、
綾織物の独占営業権と宮廷・幕府御用の地位を手にした
「大舎人座」に綾織物への進出を阻まれ、
天正年代(1586~1611年)まで、白絹を織続けて
姿を消してしまう。
京都の路地は狭い。かつてはどの家からも機音が聞こえたことだろう。
歴史を秘め、静かに佇む町並みを、町名を確かめつつ猪熊通りを上がる。
時に道を変え、そこここに現れる路地に入ったり、小さな社やお地蔵さんを見て歩くのも楽しい。